kogaidan
真のフリーであるということ
- 2009-11-09 (月)
- 読書
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私は以前からフリーになりたいという思いを強く持っています。
その「フリー」とは、会社というものから離れて仕事をすること=個人事業や小さな(自分だけの)会社を立ち上げることであると、定義していました。だから、会社に雇われるというのは嫌だと。
土曜日に小飼弾さんの「弾言」を読み返してみて、その定義が変わりました。
フリーというのが、必ずしも会社に雇われることを否定するものではないと考えています。そして、会社から離れたとしても、必ずしもフリーではないというのもまた真です。
というのは、私がいま、契約社員という立場で仕事をしていて、プロジェクト単位、もっというと3ヶ月区切りで契約を更新するか否かを決められます。かなりフリーに近いあり方だと思います。
結局、私は2年近く契約を更新し続け、同じプロジェクトで仕事をしています。それはなぜか?と言われれば、最近はプロジェクトでの経験の評価や切れ間の関係があって更新しているのですが、当初は主に経済的な問題で更新するしかなかったのです。
「弾言」は、この辺のことをバランスシートの考え方を持ってきて、うまく説明してくれます。
つまり、資産形成が重要であるということです。仕事していなくても1年くらいは暮らせるお金があれば、フリーの度合いというか価値は高まります。そして、暮らすために必要なお金というのは、自分の家計を見つめ直せば減らせるところがあるはずで、まずそこから始めようと弾言しています。
また、「1年くらい」という期間も、自分の能力如何で短くもなれば、長くもなります。自分がどこででも雇われる、稼げるだけの能力を持ち続けているならば、1ヶ月分くらいの余裕でもフリーと言えるわけです。そして、その能力を高めるには、まずは本を読むことが必要であると。
このようなお金と能力を持っているならば、別に会社に雇われていても本質的にフリーといえます。言い方としてきつくなりますが、「いつでも辞められる」という気持ちを持つことが出来るわけです。このような気持ちが持てたときに、会社奴隷から、会社と対等な関係を持った個人に変化するのでしょう。
このエントリーでは「お金」について取り上げましたが、弾言ではさらに重要なものとして「時間」を挙げています。この点についても、また触れようと思います。
「好きを貫く」志向性のバリエーション
- 2007-12-10 (月)
- マイライフ
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タイトルを「好きを貫くの敷居を下げる」から変更しました。
今日、2つの注目すべきエントリーがあって、大変に参考になった。
若輩な私でも、ネットの隅っこのほうで様子を覗っていると、こういう人生における高度な議論を目にして、自分の何か糧にすることが出来、こうやって少し何か書けるというのは、ありがたい。
どんなにプログラミングが好きな人でも、毎日休まずプログラムを書き続けないと
生活できないとなると、それはだんだん苦痛になってくる。
好きなことを仕事にして生きていく、というのは、本質的にそういうことなのだ。
そもそも、人は、その瞬間、瞬間で、いろんなことに興味をもち、
いろんなことをやりたくなる、自由で軽やかに発散していく欲望を持っている。
分裂勘違い君劇場 – 「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法
振り返ってみると、私は「好きを貫く」というよりは「嫌いから逃れる」人生を歩んで来たと思う。学校が嫌いだったので登校拒否し、家が嫌いだったので家出し、日本が嫌いだったので留学し、雇用されるのが嫌だったので自営し….といった具合だ。
404 Blog Not Found – 嫌いを砕く
この2つのエントリーは、梅田望夫氏の著書「ウェブ時代をゆく」や、氏の言うところの「好きを貫く」に対する批判のように読めるが、私にとっては、どうも同じようなことを言っていると思えた。それ故に、「ウェブ時代をゆく」の読み方がさらに深まったような気持ちすらしている。少し、自分の目の前が明るくなったような気がするのだ。
なぜ、同じようなことを言っていると思ったかというと、その時々の好きという気持ちを大事にすることで、結果的に何か貫いた好きを持たない(ように見える)…何者でもない自分…なのであれ、嫌いから逃げるまたは砕くというのであれ、それは結局のところ、志向性を巡るバリエーションに過ぎないのではないかと思ったからだ。
梅田氏のいう「好き」は貫くほどの好きだとすれば、分裂勘違い君劇場は「その時々の好き」だから、やはり好きなのであり、小飼弾氏はもうちょっと控え目な好きというか、嫌いから逃れることによって到達する好きなのではないか。その程度の差こそあれ、何か指し示している志向性であることには変わらない。


